お気付きでしょう。私たちいちばん傷つけらけられるのは、その善意が

疑われるときです。確かに、人間は弱いものです。

たとえ、一所懸命にやっているつもりでいても、行いが間違っていることも

あります。やはり人の善意は完全なものではないのです。

でも、最高の宝、最後の拠り所です。善意までも疑えば、その人には生きる場が

なくなり、付き合いも不可能になります。難しいときもありましょうが、

神がされたように、善意を認める努力をしましょう。

世の中の悪は、目にあまるときがあります。憎しみ、いじめ、権力争い、

だまし・・・・・。反面、目に見えない善意も、そして、弱さ、疲れ、未熟さなど

弁解の理由もあるのです。他人に対して、責めよりも、励ましと思いやりが

必要でしょう。「他人からしてほしいと思うことを、あなたも他人にしなさい」

というイエスの御言葉を思い出しましょう。

なお、相手の善意を認めれば、違う考え方や信仰の人に対しても寛容さが

可能でしょう。実際に、神の御前に大切なのは、人の考え方よりも人の救い

なのです。神は、御憐れみによって、善意あるすべての人をお救いになると

教会は信じています。

他人の善意を認める努力をしましょう。